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サイト移転のお知らせ

当サイトifcbaby.comは 2004年5月末付けで、新サイト http://www.ifcbaby.net
移転いたしました。


尚、2004年6月1日以降は
新サイト http://www.ifcbaby.net
引き続きご高覧賜りますよう
宜しくお願い申し上げます。



卵子提供を受けて。。。私の場合


関東甲信越地方のS様

私たちの体験談

私たちは結婚後3年間子宝に恵まれませんでした。二人とも子供が大好きで結婚したら子供は2人は欲しいね!!とか結婚前から話していました。

なかなか子供が出来ないので基礎体温を測ったりもしましたが結局何をしても無理だなと諦め一時は二人で一生楽しく過ごそうとまで話し合っておりました。そんな時たまたまインターネットにて不妊治療のサイトを検索し閲覧していたところこのたび御世話になりましたIFCに興味を持ち早速資料を送っていただきました。海外での治療という事もあり費用はかなり嵩みますが、治療するのであれば日本国内で何度も不妊治療に挑戦し、うまくいかず結局は諦めている人を何人も知っていましたので、私たちはどうせ駄目なのであれば金額よりも最先端の医療技術及び不妊治療に対しての今までの実績等を考慮した上で今回御世話になりましたIFCを選択するに至りました。そこでもし駄目なのであれば私たちも納得できると思ったからです。

いよいよ治療を始めるという前に社長の川田さんよりわざわざアメリカからお電話を頂き夫婦二人といろいろな話をさせて頂きました。その後、まずは夫婦二人でIFC東京オフィスへ伺い色々なお話と契約に関しての説明を受けました。渡米日を決定し夫婦二人でサンフランシスコへ向かい不妊治療がスタートしました。私たちの場合は卵子に問題があったためドナーさんから卵子を提供して頂き体外受精を行なうという方法でした。渡米しIFCの事務所へ行き各スタッフの方々よりお話がありドナー選択の話になり各ドナーさんの写真入プロフィールを拝見させて頂きました。その中にはアメリカ人をはじめ東洋系の方がいらっしゃいましたが、偶然にも日本人のドナーさんがいらっしゃり、1日夫婦二人で検討した結果血液型も一緒だった事もありやはり日本人の方に卵子を提供して頂く事にしました。

最初の渡米は夫婦二人でIFCにて今後の説明及びドナーの決定、クリニックにて夫婦の血液検査、精子の採取、子宮の状態確認等を行ないました。その後ドナーさんより私たち夫婦のために卵子を提供して下さる事が決定しドナーさんの都合に合わせ妊娠の為の治療を始める事となりました。

体外受精後、胚移植し約10日後見事妊娠している事が判明しました。このときは夫婦二人で大変喜びました。(IFCの皆さんも自分の事のように喜んで下さいました)

妊娠判明後一番辛かったのは筋肉注射による投薬でした。しかし今後産まれてくる子供達の事を考え最後まで良く頑張ったと思います。

妊娠後は日本の産婦人科に御世話になる事になりましたが、妊娠中は定期検診のたびに超音波映像をビデオにダビングして頂き成長をみるのがいつも楽しみでした。実は妊娠判明後、男女の双子である事を知らされ二重の喜びを得られました。

帝王切開による出産でしたが、二人とも元気ですくすく育っております。二人いっぺんでしたのでちょっと大変ですが喜びも2倍ですので何とか乗り越えていけると思います。

この様な喜びを与えて頂いたのも、IFC、クリニック、ドナーさんのおかげと心から感謝致しております。

不妊で悩んでいる方は結構いらっしゃる事と思いますが決して諦めず一度IFCへ相談してみて下さい。スタッフの皆様が親切丁寧にご説明してくださる事と思います。色々とプライバシーに関しても気をつかってくださいますので安心して相談出来ます。

最後になりますが私たちは不妊で悩んでいた事もありこの度2人の子供を授かり育てて行くことで、あらためて人の命の大切さが身にしみている今日この頃です。


F様(39歳、健康な女児ご出産)からのメッセージ

体験談というほど立派なことは浮かびませんが、注射が大の苦手な私が、毎日よく自分で打てたものだと自分でもビックリです。その時は、なんとしてもと夢中でしたから。

何度訪れたか忘れるぐらい渡米しましたが、その度に空港で出迎えてくださるスタッフの方、ホテルとクリニック間を送迎してくださるスタッフの方々の笑顔ある応対にはげまされ、どうしても不安になりがちな車中ですが、今回こそ、とがんばることができました。

ドナーさん、クリニックの方々はもとより、IFCの方々にお礼申し上げます。


M様(44歳)からのメッセージ

私たち夫婦が最愛の一人息子を病気で亡くしたのは、私が34歳のときでした。周りからは一人産んでいるのだからまた出来るよと励まされながら10年間不妊治療を続けました。同い年の人たちの中にはもう孫のいる人もいたり、家族からは“子供”という言葉は年月を重ねる度になくなってきました。

日本の医師から「もらい子」という言葉が出るようになったのが私たち夫婦が卵子提供プログラムに関心を持ったきっかけでした。IFCのスタッフの方が気軽な気持ちで米国へ遊びにいらしてくださいとのお言葉をくださり、私たちも老後生活への第一歩のつもりで初めて米国本土へ足を踏み入れました。

米国のドクターとのお話で私が実感したことは、子供はもう望めないと日本で思い続けていたのにここでなら子供が抱けると直感したことでした。英語なんて中学校の時の授業で習った程度でした。そんな私にも今年かわいい赤ちゃんをこの胸に抱くことが出来ました。

今このプログラムを思い返すと、私たち夫婦、IFCの方々と一緒に臨んで本当に良かったと思っております。

関東甲信越地方のS様のメッセージ
「壮絶な不妊治療の末にやって来た天使」
夢にまで見た赤ちゃんが誕生して5ヶ月が経ちました。今、私の横で可愛い寝息を立てている我が子は、まるで小さな羽をつけた天使のようで、私達に幸せを運んできてくれました。早く逢いたくてどれほど待っていたことでしょう。

私が、このままでは妊娠の可能性は殆どないかもしれない、とそれまでの治療に見切りをつけたのは42歳の時でした。長年続けてきた不妊治療は、現在国内で行われている治療法の全てをやり尽くしたものでした。高齢の為、卵巣の機能がかなり衰えていましたので、遂には最大量の排卵誘発剤にも反応をしなくなってしまったのです。生理も薬でおこす様な状態になり、更年期障害の症状も出てきていました。医師からも、可能性が全くない訳ではないが、子供は諦めて二人での人生を考えた方が良いのでは、と辛い宣告を受けたのです。奈落のそこに突き落とされた様な思いでした。こんなに頑張ってきたのに結局は壮絶な治療の辛い思い出が残っただけで、赤ちゃんを抱く夢は諦めなければならなくなってしまったのです。逃れようのない絶望に泣き明かす夜が続いたものでした。身も心も疲れきり、空しく時間だけが過ぎていた時、提供卵子によって妊娠が可能になるという究極の方法がある事を知りました。

インターネットでIFCの情報を得て、即、東京の事務所に申し込みをしたのです。間もなくサンフランシスコの川田さんから連絡を頂きました。よく考えた上で決断してください、との事でしたが、既に決心はついていました。他人の卵子を使って妊娠する、つまり生まれてきた子供は自分の遺伝子は引き継がないという事、しかし、全く迷いも抵抗もありませんでした。それどころか、地獄の底でもがき苦しむ私に下ろされた一本の救命ロープのように思えたのです。これで赤ちゃんを産む事が出来るかもしれない、と高まる期待の中でまずは検査渡米をしました。早くも滞在中にドナーが決まり、夢が現実となる日が近づいたのです。帰国していよいよ"卵子提供プログラム"に向けて準備が進み、赤ちゃんを受け入れる為にホルモン剤を投与しながらその日を待ちました。そしていよいよ再渡米です。一回目の移植を受けました。どうかこの先10ヶ月の間、私のお腹の中にいて下さい、と元気な受精卵達に願いをかけました。帰国して、赤ちゃんとの楽しい生活を想像しながら判定の日を待ちました。そしてその日がきたのです。ところが、無情にも判定キットは良く見慣れた"マイナス"をしるしていました。期待が大きかっただけに落胆は相当なものでした。しかし、いつまでも落ち込んではいられません。次に進まなければ、また年齢だけがどんどん過ぎてしまう。私には心を癒す時間など必要ではありませんでした。この時の採卵で、まだ2回分の移植が出来る凍結卵がありましたので次に希望をつなげることにしました。まだ2回のチャンスがある、今度こそ成功する、と期待を持ちました。ところが、その2回の移植も失敗に終わってしまったのです。凍結卵は全て使い果たしてしまい、もう絶望的した。どうしてこの様な結果になってしまったのか。これで全てが終わったと思いました。しかし、ほんとにここで諦めてしまってよいものか?もし諦めたら今までの苦労と努力は何だったのか?むしろ、一層思いが募ってしまい、もう後には引けなくなってしまいました。クリニックのハーバート先生からも、妊娠できる可能性は充分あるのだからもう一度挑戦してみる価値はある、とのアドバイスを受けて、ドナーを変えて改めて"卵子提供プログラム"に臨む事にしたのです。ホルモン剤の投与も薬から注射に変えました。始めは自分で打つ注射にためらいがありましたが、妊娠が叶えられるのであれば怖さも半減したものです。もう一度頑張ってみよう。もしこれでだめならその時は潔く諦めよう。勿論、精神的、肉体的、そして費用の負担は大きなものでしたので、この時の決断は"賭け"のようなものでした。そして4回目の移植に臨むことになりました。ところが、なんとまたしても失敗してしまったのです。ドナーを変えて、注射に切り替えて、これほど頑張っているのになぜ妊娠しないのか?もう不思議とさえ思えるようになってしまいました。

しかし、落胆するものの、この頃には現実の厳しさを冷静に受け止めるようになっていました。今にして思えば失敗する事に慣れてしまっていたのかもしれません。この時の採卵でも前回と同様に2回分の凍結卵がありました。残された凍結卵に希望をかけながらも、この頃はもうだめなのかと思う気持ちと、絶対に成功するのだと思う相反する気持ちが絶えず背中合わせだった様に思えます。そして5回目の移植に向けて渡米、以前の様に切迫した気持ちはありませんでした。私はこの時すでに44歳になっていました。検査渡米から数えて6回目のサンフランシスコはすっかり来慣れた町になっていました。リラックスした気分で移植を受け、帰国して待つこと2週間、判定の日を迎えました。いつもの様におそるおそる覗き込む判定キットの小さい窓、そこにはなんと陽性の反応があったのです。初めて見る"プラス"の表示でした。夢なら覚めないで、そんな思いですぐに病院に向かいました。そして、血液検査で妊娠が確定したのです。その後お腹と共に大きくなる夢を膨らませながら10ヶ月の妊娠生活を終え、無事男の子を出産しました。不妊治療を始めて8年目のことでした。

現在は親子3人で楽しい日々を送っています。あこがれていた"川"の字で寝たり、休日にはベビーカーを押して遊園地に行ったりと、どこにでもあるごくありふれた家族の風景ですが、私達にとってはやっとのことで手に入れた幸せです。辛い不妊治療、しかしそれはどれほど長く苦しい道のりであったかは壮絶な不妊治療を続けてきた全ての人の共通の思いです。途中、幾度もくじけそうになって、自暴自棄に陥った事もありましたが、最後はきっとこの手で赤ちゃんを抱く事が出来ると信じて諦めなかった事でこのような幸せを手に入れることが出来ました。"卵子提供"という選択に思い切って進んだ事は大きな決断でした。しかし、本当に正しい選択をしたと思います。どうしても踏み切れずに迷っていたら、未だに治療を続けていたか、または諦めてしまっていたことでしょう。随分と遠回りをしていたようですが、赤ちゃんは私たちの所にやっと来てくれたのです。

母になりたいと願う全ての女性は皆その権利があるのです。何年か前までは私の様な状態になってしまえば子供を産むことなど到底考えもつかなかったでしょう。しかし、医学の進歩によりそれが可能となったのです。その恩恵を受け、壮絶な不妊治療をしてきた人が一人でも多く可愛い赤ちゃんを抱く日が来る事を願いたいと思います。クリニックの先生方、川田さんをはじめIFCのスタッフの皆さんには本当にお世話になりました。可愛い天使を有難うございます。


関東甲信越地方のA様のメッセージ
「3回の渡米治療の後に得た幸せ」
<奥様より>

無事出産を終え、こんなにも可愛い赤ちゃんを授かることができました。その時、手術が済み、すぐに赤ちゃんが私の枕元にやって来た時、見るやいなや、『思っていたとおりの“もうずっと前から私の子供だった”ような』『見知ったお顔のような』赤ちゃんだと思いました。 泣き声も、手も足も、何もかも、可愛くて仕方のない『赤ちゃん』でした。私は妊娠中ニックネームをつけて呼びかけていたので、思わずそのニックネームで呼びかけてしまいました。 このような幸運にめぐまれたのは、IFCの皆様が助けて下さったお蔭と感謝致しております。子供は、母乳とミルク(混合)で日ごとに育ってきました。二十四時間、毎日、私たち家族に喜びと幸せをもたらしてくれています。 この子は、いろいろな表情をしてくれて、いくら見ていても飽きません。ほっぺに触れると笑みを浮かべてくれます。(これをエンゼル・スマイルと言うのでしょうか。) 今年の春の景色がことのほか美しく見えます。

<旦那様より>

妻から妊娠したらしいと告げられたときは一瞬信じられませんでした。その後、産婦人科の病院で妊娠が確認されたときは、それまでの期待と不安が大きな喜びと安堵に変わりました。 また、妊娠期間を経て出産を迎えたときは、更に大きな期待と不安に見舞われました。手術室の前で待っている私の前に助産婦さんに運ばれる赤ちゃんが現れました。 保育器の中で目をぱっちりと開いて私の方を向いていました。本当に大きな感動の一瞬でした。 その後の妻との子育て奮戦生活の中で、喜びと子供に対する愛情が無限と思えるほどに深まって来ています。

私達夫婦の日本に於ける不妊治療は10年以上に及んでいました。あきらめに近い所へ来ていたときにIFCのことを知りました。 費用のことなど考えなくてはならない点はありましたが、とにかく一度やってみようと決心しました。IFCからの指示とアドバイスにより、渡米前の準備や渡米後の治療は順調に進めることが出来ました。 これは、Eメイルによる川田さんからの丁寧な連絡とスタッフの方々の行き届いた協力があったからです。現地での出迎え、ホテルへのチェックイン、クリニックとの往復、 クリニックでの手続きなど、必要な行動を何の支障もなく進めることが出来ました。

治療を行うクリニックは閑静な住宅街の中にあります。静かな医院の中で、待たされることもなく、非常にシステマティックに治療は進められます。 担当の先生は、ユーモアを交えて私達をリラックスさせながら治療を行ってくれます。自信を持って明確に説明を行ってくれるため、全面的に信頼することが出来ました。

私達は3度目の渡米治療で子宝に恵まれました。上記のような初回での体験から、「きっと成功する」という期待感が私達の心のどこかにあったような気がします。 また、各治療後に帰国してからの川田さんはじめIFCの方々のケアや励ましの言葉にも勇気付けられました。だからこそ、3回の治療を行うことが出来たのだと思います。

今となっては、夢の中の出来事だったようにも思えますが、記憶を辿りますと、渡米中はアメリカ生活も楽しみました。体調を整えるため、夫婦で街のフィットネスジムへ行って汗を流したり、治療後のホテルでの妻の安静期間には、一人でスーパーマーケットへ食料の買出しに行って、ホテルで料理をしたりと、こういう時でないと出来ない経験もいっぱいしました。 これからは、子供を健康に育て上げ、いつかは親子3人で私達が歩いたアメリカの街を再び訪れてみたいと思っています。


関東甲信越地方のK様のメッセージ
「インターネットで知った会社を最初は信じなかった僕等 」
 

川田さん、ごめんなさい、今だから正直に言いますが、僕等は最初、インターネットだけで知ったIFCのことを信用していませんでした。こうして、IFCとサンフランシスコ生殖医療センターを通して二児の親になって、(上の子は4歳、下の子はもうすぐ2歳になります!)毎日うるさいけれど幸せに暮らしているので、今となったらこんなことを言っても許してもらえますよね。

二人目が生まれてからもうすぐ2年になるけれど、『卵子提供プログラム』という、まあ、言ってみれば「特殊な」手段で子供を授かったものですから、やっぱり他の方のケースが気になるもので、IFCのホームページはしょっちゅう見に行ってました。最近新しい体験談が載せられているのを見ていたんですが、僕等と同じ心配をしていた人っていないのかな、と思って今更ですが、体験談をお送りすることにした次第です。

6年前。妻は、不妊治療を続けているうちに、排卵がすっかり止まってしまって、医者にはもう諦めろとはっきりと言われてしまっていました。妻は離婚してもいいなんて泣いたけれど、僕にはそのつもりはなかった。まあ、二人だけの人生だっていいじゃないかと慰めあいながら、でもやっぱりどこかで子供を持つという夢を捨てきれなかったのがその当時の自分達です。

その頃ちょうどインターネットが一般化してきていて、僕等も自宅用にパソコンを買ったんですよ。いろいろなことを検索して「遊んで」いるうち、やっぱり「不妊治療」の検索を真剣にしてしまいました。そうしてインターネットで見つけたのがIFCのホームページ。ニュースとかで少しだけ聞きかじっていた「卵子提供」のことを具体的に知ったのもその時でした。

当時は、インターネット詐欺とかが取り沙汰されていた頃でもあり、僕等は正直言って悩みました。「卵子提供」ということ自体が何だかとっても突飛なことのように思えたし、だいたいそれを取り扱っているのがインターネットで見つけた会社。「信じていいのかな?危ないんじゃないかな。」というのが、率直な最初の印象でした。

しかし、自分達にとって子供を授かる道は、里子をもらって養子縁組をするか、卵子提供プログラムしかなかった。里子については、僕等はもうその当時ですでに40歳を越えていたので、いろいろ決まりごとがあったから新生児は諦めなくてはならなかった。僕の血を引く子供、そして妻自身が妊娠・出産できるということ、その二つがやっぱり大きなポイントになったので、気持ちはどんどん卵子提供プログラムに傾いていきました。

しかし、卵子提供プログラムの金額は、ばかになりません。何百万もかかるわけだから、僕等のような普通のサラリーマン家庭にとっては、大きなことです。だから、ますますこの「インターネットで見つけた会社」というのが怖かった。もしかしたら、全部騙し取られるんじゃないか、なんて思って。笑わないでくださいね。あの時は、本当にそういう気持ちでした。

でもね、僕等は考えたんです。このまま何にもしないでいたら、きっと一生後悔するんじゃないかと。もし本当にこのインターネットで見つけた会社が僕等の夢を叶えてくれるところだったとしたら、僕等はとんでもない損をすることになる。でも、もし騙されていたとしたら、ものすごい高い海外旅行をしたと思ってすっぱりあきらめよう、命さえあればまた二人で頑張っていけばいいさ、なんて話しました。

こうして書くと笑い話のようだ、と思われる方もいるでしょう。でも、逆に僕等と同じ気持ちでいる方も多いんじゃないかと思うんですよ。もちろん、6年前とはインターネットの状況もどんどん変わっていて、もうあまり詐欺の話なども聞きませんが、それでも、やっぱり心配なんじゃないかと。

僕等二人、サンフランシスコ空港に初めて降り立ったときは、「できるだけ堂々としていようね」なんて言い合って・・・。それまでにはすでにIFCの東京の方ともお会いしてましたし、川田さんとも電話で話していたんですが、やっぱりクリニックに行ってハーバート院長先生にお会いするまで、猜疑心は100%消えなかったんですよ。

あんなにお世話になって、よくしていただいて、こんな元気で可愛い子供を二人も授かったというのに、川田さん、こんな話してすみません。でも、僕等と同じ気持ちを拭い去ることができなくて治療を諦めている人がいたらいけないと思って書かせていただきました。

ちなみに、上の子は一回目の新鮮胚の移植で授かり、二人目はそのときの凍結受精卵を解凍して授かりました。上女の子、下男の子で、カウンセラーの和実・ハートさんのところと同じです。

覚悟を決めてこのプログラムに参加したから、今の幸せな家庭があります。川田さん、IFCのスタッフの皆さん、有難うございました。


関東・甲信越地方のO様のメッセージ
「IVF20回を乗り越えて」
 
私は、過去に日本で20回の体外受精を受けました。今振り返ってみると、 いったいどうやってその年月を過ごしてきたのか、自分でもわかりません。 一回一回の体外受精が失敗するたび、他のことは全く考えずに、自動的に 次の体外受精の準備に入りました。こうして繰り返しているうちに、 いつか妊娠するだろう、いや、するはずだ、と信じきっていました。

18回目の体外受精をしようとしていたとき、私は40歳になっていました。 子供が欲しいと考え初めてからの長い年月が過ぎ、いつのまにか40代に入っていて、 自分でも焦りというよりは、恐ろしさを感じました。しかし、ここでやめてしまうのも もっと怖い、と感じたのです。そのとき、テレビで卵子提供プログラムのことを知りました。 まさか後で自分が本当に卵子の提供を受けようとは全く思っていなかったのですが、 40歳になったことがひとつの区切りとなって、やっぱり何か新しい方法を考えた方が いいのかもしれないと思い始めていました。そして、40歳の誕生日に主人に買ってもらった パソコンで、覚えたてのインターネットを始めて、恐る恐る問い合わせたのがIFCとの出会いでした。

そのとき、IFCの川田さんと何度もお話をしたのですが、考えてみれば、自分の不妊治療 のことであれだけ詳しく誰か他の人と話せたのは、まったく初めてだったのです。 薬の名前や治療の内容を言っただけで、ぱっと理解してくださり、反応が返ってくることだけで どんなに気持ちが楽になったことか・・・。私のそれまでの体外受精では、最大量の排卵誘発剤 を打っても卵胞が2個とか3個しか育たなかったり、ひどいときは授精しても胚移植できるような 状態に育たなかったりしていたので、やはり私の卵子が赤ちゃんに育っていける力が残っていないの ではないかと、サンフランシスコの先生からのご意見をいただいていたのにも関わらず、私は、 どうしても自分の卵子のことが諦めきれませんでした。ですから、あれだけ丁寧に川田さんに相談 していただいていたのに、今だから正直に申しますが、相談中に19回目の体外受精を内緒で日本で 受けてしまいました。でも、それが失敗に終わったとき、心の中で、こうなったら日本で20回めを やってだめだったら、もうやめよう、自分の卵子のことはきっぱり諦めよう、そして川田さんにお願い してアメリカで卵子提供プログラムを受けよう、と決めました。

日本で受けた最後の、そして私の20回目の体外受精は、やはり失敗に終わりました。身も心も疲れ果て、 主人との会話も振り返ると、体外受精のスケジュールのことばかりだったように思います。

そして、卵子提供プログラムに申し込んで、渡米。20回も日本で体外受精をしてしまったことで、 サンフランシスコの先生には、本当に驚かれました。アメリカでは、私のような卵子の状態が悪い患者 さんは、早いうちに薬などを変えていろいろ試し、原因や理由を先生と一緒によくよく考えて、最高 3,4回の体外受精のあとで次の ステップへ進むんだそうです。精神的にも身体的にも、20回も本当に大変だったね、辛かったでしょう、 とハーバート先生に声をかけていただいたとき、私は、医者にそんな優しい言葉をかけてもらったことが なかったので、先生の前で、涙が出て出て、止めることができませんでした。先生は、私が泣き止むのを じっと待ってくださり、そして、一緒に頑張ろう、とおっしゃってくださいました。そのとき、私の横で、 主人も涙ぐんでいました。私は、自分がかわいそうでかわいそうでしかたがなかったので、長い治療の間、 主人も辛かったんだ、ということを本当の意味でそれまで気がついていなかったような気がします。

東洋人ドナー、特に日本人のドナーさんが少ないと聞いていたので、心配していましたが、初めて渡米 して検診を受けたその日にドナーさんの候補者をたくさんみせていただき、何とその日に、とっても気に 入った日本人ドナーさんが見つかって、正直申しまして狐につままれたようでした。決め手になったのは 彼女の子供時代の写真で、私の子供の頃とどことなく似ていたんです。

その後は、あまりスムーズに進むので、どこかに落とし穴があるのではないかと始終びくびくする、という ありさまでしたが、川田さんがいつも励ましてくださいました。

ドナーさんからは18個の卵子が採れ、卵子って、ある人にはこんなにあるんだ、と驚きました。自分の ときが、いつも2個とか3個だったのが嘘のようです。妊娠判定がうっすらとでさえ陽性になったことも なかったのに、一回目の胚移植で妊娠。まず自宅で市販の妊娠判定キットで調べたのですが、はっきりと 妊娠の印が出たとき、キットがこわれてるのではないかとさえ考えるありさまでした。

40代での出産も心配していたので、妊娠中に起こり得るいろいろな合併症が全部自分に当てはまるのでは ないかと、心配で心配で、妊娠中もずっと何度も川田さんにメールを出して質問攻めにし、それについて ハーバート先生がいつも快く答えてくださって、本当に有り難かったです。今考えると恥ずかしいくらいです。 ごめんなさい。

そして、大事をとって、予定日の2週間前に帝王切開で出産。健康な女の子です。かわいいかわいい( すみません、親ばかですが)我が子を抱きながらも、これがまだ夢なのではないかと思うこともあります。 主人も、仕事から飛んで帰ってくる毎日です。

私の場合は、20回の体外受精があってやっと乗り越えられた自分の卵子への諦めでした。でも、 こんなことなら、早くIFCと出会って、早く我が子を抱きたかったと思います。過去の私と同じような状況に いる方に、このことを伝えたくて、これを書きました。皆さんにも良い結果が訪れますように。

    東北・北海道地方のY様のメッセージ

『恍惚感にあふれた表情。 ミルクをたらふく飲んで,オッパイから口を離した時の我が子の顔はいつも最高に 幸せそうです。 そんな時,今までの苦労は煙が広がるように消えていくのです。 8年間の不妊治療。 4年間は日本での治療。評判の高い病院で診てもらいました。しかし,うまくいき ませんでした。 あきらめかけた時,インターネットでIFCを見つけました。早速,連絡を取りま した。そして,米国行きを決断しました。 それから,4年。3度目のトライです。 妻は妊娠しました。夢のようでした。 そして,10ヶ月後に出産。元気な男の子が産まれました。オギャーの第一声を聞 いたとき背筋に電気が走ったような感じでした。 爺さん婆さんになる両親も笑顔で一杯でした。

私たちはこの治療を受けて,同じ幸せを一人でも多くの方々にと願います。 現在,不妊治療の事だけを比べれば,腰が引けている日本と最先端を目指すカリ フォルニア州では法律面でも技術面でも雲泥の差があります。 だから,日本では出産できないまたは可能性がきわめて少ないと言われていても, カリフォルニアでは十分可能性が残されていることが多々あるのです。 なぜなら,制度が違うので様々な選択肢が米国にはあるのです。また,米国は治療 法も日進月歩で良い方法やよいものを取り入れていきます。もちろん,それを行うか は十分な説明があり,こちらの判断に任されます。

こんな話を聞き,それなら米国へと思ったり,日本の治療であきらめきれなかっ たら,IFCと連絡をとることをお薦めします。英語ができなくて米国での滞在を自 力できなくても大丈夫です。IFCのスタッフが温かく迎えてくれます。そして,米 国で困ることのないようにすべての面でケアしてくれます。外国での不妊治療は心細 いものですが,IFCの皆さんはメンタル面でも特段の配慮をしてくれます。私たち に対しては,病院での通訳やホテルまでの送迎,その他大リーグ試合のチケットを得 るなど,こちらの要望にいつも快く応じてくださいました。IFCの皆さんは我が子 を妊娠できるように細部に至るまで気配りしてくださいます。おかげさまで米国で治 療するという不安は全く感じずに済みました。そればかりか,かえって日本にいる時 より,人目も気にせずリラックスし,のんびり過ごすことができました。

最後に,私たちはIFCの皆さんと優秀なお医者様なしでは夢を叶えることができ なかったでしょう。 でも,私たちもIFCを信用し,決断して,あきらめないでトライしたから,サム シンググレートがこの子を与えてくださったと思っています。 どうぞ,強い願いであれば,ご決断し,あきらめないでチャレンジしてみてくださ い。 きっと,私たちと同じ大きな幸せがいつかやってくるはずです。 どうぞ幸せの輪が広がり,今お読みくださった方まで届きますように。』

    関東・甲信越地方のW様のメッセージ

『昨年暮れにIFCさんのプログラムで無事、健康な女の子を出産しました 47歳の主婦です。日本でも3回、体外受精を受けましたが、成功に到り ませんでした。まず最初に驚いたことは、日本の病院では見つけることができなかっ た子宮内のポリープがみつかったことです。そして、すぐにポリープの除去手術も行 われました。下からのマイクロスコープ手術であっという間5分位で終わったんで す、 もちろん日帰りです。というわけで、1回目の渡米でポリープまでとってもらいまし た。もし、日本で万が一みつかっていたら、術前検査に始まって大事です、開腹手術 になっていたことでしょう。 そして、本当に病院の先生をはじめスタッフの皆さんがとてもやさしいんです。 ちゃんと人間扱いしてくれますので、精神的にリラックスして受診できました。 ドナーの方もその時見つかり、実にスムーズに進みました。 おかげさまで今は可愛い我が子を抱いています。IFCさんのプログラムを受けること ができて本当に良かったと思っています。』

    九州・沖縄地方のO様より

ご無沙汰致しております。出産から、早3ヶ月が過ぎ、育児に悪戦苦闘しながらの生活にもようやく慣れて、少しは自分の時間を持てるようになりました。日増しに暑さが強くなり、その上湿気も多い日本の夏、梅雨明けと同時に熱帯夜だったりとで、あせもが出来てしまって。。。
それに、普通おむつでかぶれてしまうのは理解できるけど、紙おむつでかぶれてしまったりと、何だか笑える生活を送っております。写真が出来ましたので、数枚同封致しました。主人にそっくりな顔をまあ皆さんで笑ってください。又、時々はメールにて近況をご報告させて頂きますので、スタッフの皆様や、クリニックの皆様にもよろしくお伝え下さい。

追伸
少しでも可能性があるのなら、めげずにあきらめないで欲しいと、これからそちらで、治療や移植を受ける方々にお伝え下さい。願いや思いは叶うという事を・・・。       

 

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不妊治療の悩み

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